追悼

「あいまいな国」で難しい自然死を全うした小説家・大江健三郎さん

公開日:2023-04-01
更新日:2023-04-08
「あいまいな国」で難しい自然死を全うした小説家・大江健三郎さん
コラム・体験記
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マスクをしなくていい久しぶりの春です。花の香りを思い切り鼻腔に吸い込むことがこんなに気持ちよかったなんてね。僕らはようやく日常を取り戻しつつあります。しかし頑(かたく)なにマスクをはずさない人も多くいる。

「なぜはずさないの?」と訊くと、多くの人がこう答えるようです。

「周囲の人もまだマスクをしているから。皆がしなくなったら私もはずします」

日本人らしい答えだなあとつくづく思います。そんなとき、この人の本のタイトルの一つが頭をよぎります。『あいまいな日本の私』(岩波新書)です。

この本の著者であり戦後を代表する偉大な小説家であった大江健三郎さんが、2023年3月3日に亡くなりました。享年88。死因は、老衰との発表です。

 

■あいまいな国で難しい自然死


複数の患者さんから、「80代なのに老衰になるの? 若くないですか?」と訊かれました。老衰は90代後半以降の死因だと思っている人が少なからずいるようです。しかし、老衰に明確な年齢の定義はありません。

平均寿命を超えて徐々に肉体が弱っていき、重大な病気も見当たらず枯れるような最期を迎えた場合、その死因を「老衰」と書く医師が近年増えてきました。厚労省のマニュアルにはこう書かれています。

「『老衰』は、高齢者で他に記載すべき死亡の原因がない、いわゆる自然死の場合のみ用います」

つまり神様に与えられた寿命を全うされたということ。徐々に食べられなくなり、わずかな水分で数週間。樹木が枯れるように痩せ細っていく、穏やかな最期です。

家族や介護者は、その自然な経過を見守ることが大切なのですが、本人がまだ80代の場合は、家族が「まだ死なせたくない!」とさまざまな医療処置を求めるケースがままあります。家族に求められたら医者も何かしなければとなり、点滴や胃ろうで多くの水分とエネルギーを入れることも。すると枯れて穏やかな最期はかなわなくなり、多少命は延びても心不全や肺水腫による呼吸困難など、苦しい最期になってしまうのです。

米寿で旅立った大江さんのご家族は上手に見守ることができたのでしょう。もしくは「リビングウイル」つまり「医療に関する遺書」を残していたのかも。

戦後、欧米的思考とアジア的思考の狭間(はざま)であいまいに生きてきた日本人。それはそれで良い面もありますが、自分の最期くらいは自分ではっきり決めた方がいい。しかし、マスクをはずすタイミングさえ自分で決められない国民性ですから…大江さんのように自然な死を迎えることも、簡単ではなさそうです。

「健活手帖」 2023-03-27 公開
解説・執筆者
長尾クリニック院長
長尾 和宏
医学博士。東京医大卒業後、大阪大第二内科入局。1995年、兵庫県尼崎市で長尾クリニックを開業。外来診療から在宅医療まで「人を診る」総合診療を目指す。健活手帖の連載が『平成臨終図巻』として単行本化され、好評発売中。関西国際大学客員教授。