歯周病や虫歯が原因で、脳に膿がたまる脳膿瘍という病気になることがある。半身麻痺などの神経症状を引き起こし、膿ができた部位によっては命に関わる怖い病気だ。さらに、虫歯による激烈な歯痛と思ったら、顔の感覚を支配している三叉神経による痛みだったということも…。関連があるとあまり知られていない歯周病や虫歯と脳の病気について専門医に話を聞いた。
誰にでも起こりえる脳膿瘍
今年5月、50代のH氏は突然、職場で右半身を動かすことができなくなった。異変に気づいた同僚の機転で救急搬送され、手術によって一命をとどめ社会復帰を果たした。その病名が脳膿瘍(のうのうよう)。歯周病菌が脳へ侵入し、袋状の膿(うみ)となって脳を圧迫したことで脳神経症状が現れたのだ。
「頭の中は通常無菌状態ですが、脳膿瘍は細菌が原因で脳に袋状の膿がたまる病気です。Hさんのように歯周病菌以外に、中耳炎、副鼻腔炎、扁桃炎などの疾患によるいろいろな菌で起こり、頭部に直接受けた外傷によっても、細菌が脳に迷入して増殖します」
こう説明するのは日本大学病院大谷直樹副病院長。脳腫瘍・頭蓋底センター長として、脳のさまざまな病気の診断・治療を行っている。
「脳膿瘍は、かつては死亡率70%ともいわれていたようです。画像診断や抗菌薬と治療技術の進歩によって2000年代前半には20%にまで減少したとされていますが、安易な病気ではなく、命に関わる疾患です」(大谷副院長)
吹き出物や傷が膿んだ(感染した)経験を持つ人はいるだろう。脳膿瘍も、脳へ侵入した細菌が増殖して引き起こる。治療は抗菌薬の投与で済む場合もあるが、袋状の膿が一定以上の大きさになると、チューブを挿入して膿を排出するドレナージ処置や、外科的に膿を取り除く開頭手術など、脳膿瘍の位置や大きさなどによって治療法は変わってくる。
いまだ死亡率が20%と高いのは、膿が多発している場合や小脳や脳室内に生じると重症度が高くなるためで、後遺症が残ることも死に至ることもある怖い病気だ。
「脳膿瘍は、脳が腫れる脳浮腫を引き起こしやすく、脳浮腫による脳の圧迫が強くなることで言語障害や半身麻痺、局所のけいれんなど神経症状が出現します。後遺症が残った場合、治療後の社会生活は変化を余儀なくされますので、早期の適切な診断と治療が重要です。脳膿瘍の症状は人によって異なりますが、体調がおかしいと感じたなら、ためらわず医療機関の受診をお勧めします。
早期に治療が開始されれば元通りの生活に戻れることも多く、いつもと違う頭痛や身体の異変を軽く考えないことが大切です」(大谷副院長)
長引く風邪のような症状に注意
脳膿瘍は、特有の症状があるわけではない。膿が生じる脳の部位によって、出現する脳神経症状は異なる。歯科や耳鼻科の治療後でも風邪のような症状が続き、市販薬などの服用で症状が軽減したものの「頭痛」「発熱」といった症状が長引く場合はご用心。
「一般的によく知られる脳卒中は、ある日突然発症します。一方、脳膿瘍は細菌感染が原因のため膿が大きくなるにつれて症状が悪化する場合や、症状の出現に時間経過があります」(大谷副院長)
脳卒中は「ACT-FAST(アクトファスト)」を合言葉に、症状の見極めが推奨されている。FASTは、F=顔(Face)の麻痺など、A=腕(Arm)の力が入らないなど、S=会話(Speech)が上手くできないなど。これらの症状があったときには、T=時刻(Time)を確認して、救急要請(ACT)を行う。
脳膿瘍は膿が原因であるが、出現する症状は障害を受けている脳の部位によって生じているため脳卒中と同じような症状がでる。体に異変を感じたら医療機関を受診することが肝心だ。
細菌が脳関門を突破する
では、脳膿瘍の予防はどうすればよいのか。
「歯周病や虫歯、副鼻腔炎など、細菌が繁殖しやすい病気を放置せず治療を受けることが基本です。ただし、脳膿瘍の発生率は10万人あたり0.3~1.3人で患者さんが多い病気とはいえません。歯周病を放置した全ての人が脳膿瘍になるわけではなく、その原因はよくわかっていません。」(大谷副院長)
脳は人が人らしく生きるための重要な臓器であり、血液から細菌や有害物質が入らないようにフィルター(血液脳関門)が備わっている。本来であれば、口の中から歯周病菌が血液に入り込んでも血液脳関門のフィルター機能で菌は脳に入り込めず阻止されるはずだが、脳膿瘍ではこの仕組みが上手く機能していないと考えられている。
「どのようなタイプの人が脳膿瘍になるかもわかっていません。誰もがなりえると考えて、体の異変を見逃さないようにすることが大切です」(大谷副院長)
虫歯のはずが原因不明の激痛
口腔ケアを放置して脳膿瘍になるリスクがあると知れば、定期的な歯科受診を心がけるのが一般的だろう。ところが、口に激痛が走り、虫歯だと思って歯科に行っても虫歯でないことがある。
「脳の神経の病気の三叉神経痛は、顔面に痛みを引き起こすトリガーポイント(痛みの原因部位)が歯痛と間違われやすい。三叉神経痛は激痛なので患者さんは歯科へ行きますが、仮に治療を受けても痛みが取り除かれず、つらい思いをされることが多いのです」
こう話すのは、水戸ブレインハートセンターの畑山徹院長。三叉神経痛の診断治療の第一人者で、専門医の間では「トップナイフ」と称される。
「三叉神経痛は、適切に診断をして治療を行えば痛みは取れます。しかし、診断されずに何十年も痛みを抱えて苦しむ患者さんは、今でもたくさんいます。この状況を変えたいと思っています」(畑山院長)
三叉神経は、こめかみの奥の脳幹から伸びた左右の三叉神経節から、それぞれ3本に枝分かれし顔に広がっている。顔で感じる痛覚、触覚、冷熱感を脳に伝える役割を担う。
この三叉神経の脳の起点付近で、加齢に伴い屈曲して垂れ下がった動脈が、三叉神経を圧迫することで顔に激痛を引き起こす。それが三叉神経痛の原因だ。つまり、口を動かしたときに激痛を引き起こすが、虫歯や口の中の障害ではなく、脳の奥の三叉神経の障害によって痛みが顔に生じているのだ。
「口腔外科の歯科医師は、三叉神経痛のこともよく知っています。歯科を受診して激痛の原因がわからないときには、口腔外科もしくは脳神経外科を紹介してもらうと、三叉神経痛の診断がつきやすいと思います」(畑山院長)
だが、三叉神経痛という病名の認知度が低く、適切な診断がされないことで悩む人は依然として多い。典型的なパターンは、次のようなケースだ。
顔の痛みを歯痛と間違え…
ある日、何の前触れもなく、食事をしようとした途端に口元に激痛が走る。口を開けられず、食べ物も口に入れられない。「片側の口が痛い」ので「虫歯」だと思い、すぐに歯科を受診する。
ところが、画像検査などで虫歯の有無を調べても口の中は異常が見られない。虫歯がないのだ。仮に虫歯が見つかって治療を受けても痛みが治まらない。「とにかく痛みを何としてください! 歯を抜いてください!」といって、健康な歯を抜いてもらう人もいる。
それでも、三叉神経痛の原因解決にはならず激痛が続く。食事もできず、話すこともできず、顔を触れば激痛が走るので洗顔もできない。やがて日常生活は破綻し、やせ細り、孤独に苦しみを抱え続けることに…。
「失語症と間違われる患者さんもいるほど、三叉神経痛の激痛でしゃべれなくなることもあります。絶望の淵に立たされた患者さんは、三叉神経痛の治療で痛みが和らぐと、人が変わったように笑って話せるようになります。ご家族も驚くほど明るくなるのです。いかに診断・治療に早くたどり着くかが、三叉神経痛では重要ともいえます」(畑山院長)
三叉神経痛、4つの治療法
三叉神経痛には4つの治療法がある。(1)カルバマゼピン製剤による薬物療法、(2)局所麻酔などによる神経ブロック、(3)放射線治療による治療のガンマナイフ、(4)三叉神経を圧迫する動脈の位置を変える手術。(1)のカルバマゼピン製剤は、三叉神経痛の痛みを劇的に改善するため、治療の第一選択肢とされている。カルバマゼピン製剤が効けば三叉神経痛と診断できるほど効果が高い。
「薬によって痛みは消失しますが、三叉神経を圧迫する動脈の位置が変わらないため再び痛みが生じることがあります。このときカルバマゼピン製剤が効きにくくなっていることが多いのです。
神経ブロックやガンマナイフにもそれぞれ利点と欠点があります。原因を取り除くという意味では、手術が目的にかなった治療の選択肢となりえます」(畑山院長)
頭を開ける手術は、一般的にはなるべく避けたい治療法だが、三叉神経痛の患者は激烈な痛みから解放されるため、手術を希望する人が多い。また、手術によって約9割の人は、三叉神経痛から完全に解放されるという。
誰でもなりえる
「三叉神経痛は加齢に伴い誰にでもなりえる病気ですが、10万人あたり5人程度と患者数が少ない病気です。なりやすい人の傾向は科学的に解明されておらず、誰でもなりえる病気です。多くの人に、三叉神経痛という病気があることを知っていただきたいと思います」(畑山院長)
歯痛で歯科へ駆け込んで原因不明のときには、三叉神経痛の疑いがあることを覚えておこう。そして、口腔外科や脳神経外科を受診し、三叉神経痛を含めた正しい診断・治療を受けることを心がけよう。
「脳膿瘍や三叉神経痛は誰でもなりえますが効果的な予防策はありません。『こんな病気がある』と知っていただき、自分の体が『どうもおかしい』と感じたら早期に医療機関を受診していただきたいと思います。」と畑山院長と大谷副院長は話す。
大谷直樹(おおたに・なおき)
日本大学病院副病院長、脳神経外科診療教授、脳腫瘍・頭蓋底センターセンター長。1993年、防衛医科大学校卒。スイス・チューリッヒ大学病院脳神経外科留学、防衛医科大学校脳神経外科講師、2020年から日本大学医学部脳神経外科准教授などを経て、2021年、同脳神経外科学診療教授に就任。2023年から現職。
畑山徹(はたけやま・とおる)
水戸ブレインハートセンター院長、脳神経外科専門医・医学博士、脳卒中・頭痛・認知症専門医。1988年、弘前大学医学部卒。米国ピッツバーグ大学留学(日本学術振興会海外拠点研究施設派遣研究員)、青森市民病院副院長、弘前大学医学部臨床教授などを経て2014年より現職。