鼠径部から腸が飛び出す「脱腸」
「鼠径ヘルニア」という病気は聞き慣れない人も多いかもしれませんが、「脱腸」と言えばイメージが湧くでしょう。腰痛を連想する人もいますが、それは椎間板ヘルニアです。
ヘルニアとは、「出てはいけないモノが出る病気」全般を指します。鼠径ヘルニアは「鼠径部から腸が飛び出す病気」という意味です。あまり知られていませんが、実はこの病気、放置すると命取りになる可能性があるのです。私は長年、消化器外科医として鼠径ヘルニアの治療に当たり、その特徴や恐ろしさをつぶさに見てきました。これから5回にわたり、鼠径ヘルニアの症状と治療法について解説します。
人類の進化で生まれた病気
まずは、鼠径ヘルニアになるメカニズムを紹介します。図を見てください。
腸は本来、腹腔内(お腹の中)にあり、鼠径部から出てくることはありません。しかし、加齢とともに鼠径部の腹壁が弱くなると、その隙間(ヘルニア門)から腹膜ともに、皮膚のすぐ裏側まで飛び出してしまいます。これが鼠径ヘルニアの正体です。
鼠径ヘルニアの歴史は古く、旧石器時代以前まで遡(さかのぼ)ります。人類が紀元前300万年前に4本足から2本足になり、「両足だけで立つ」ことで、内臓の全重力が鼠径部を含む下腹部に集中。鼠径部の腹壁に圧力がかかりやすくなり、内臓が「押し出されやすく」なったのです。鼠径ヘルニアは進化と共に生まれた病気といっていいでしょう。現代でも、鼠径ヘルニアは男性の3人に1人がかかり、女性の患者も珍しくないほどポピュラーな病気です。
敗血症になる危険性も
鼠径ヘルニアが軽度の場合、強い痛みなどは現れません。「太ももの付け根にやわらかいふくらみがある」「ふくらみを手で押し込むと消える」ほか、「下腹部になんとなく違和感や不快感がある」といった症状がみられます。
しかしながら、手で押し込むと消えるため、「気づかれにくい」病気でもあります。実際、患者さんの30%が無症状、50%がその存在にすら気づいていないというデータもあります。
しかし、出っ張った部分を押し込むことを続けていると、腸がずっと飛び出したまま引っ込まなくなることもあります。これを「嵌頓(かんとん)」と言い、この飛び出した腸がヘルニア門で締め付けられ、腸が壊死し、破裂することもあります。これを「腸穿孔(ちょうせんこう)」と呼びます。
腸が破裂し、腸の中にたまっている(便の元となる)便汁がお腹の中に流れ出すと、菌が繁殖し腹膜炎になります。最悪、菌が血中に入り込めば、敗血症になり命を落とす危険すらあるのです。
どんな人がかかりやすい?
このように怖い病気ですが、実は鼠径ヘルニアになる人に共通点はありません。理化学研究所や東京大学などの共同研究によると、「遺伝子とヘルニアの発症になんらかの関連が見られる」ことがわかっていますが、まだ原因不明な点も多いのです。
「誰でもなりうる病気」なので、発症しても自分を責めたり生活を反省したりする必要はまったくありません。大事なのは正しい知識を持って正しい治療を行うことに尽きます。